こんにちは!旅するフリーランスの飯田さん(@iida_shi)です。
このブログやSNSを見て「飯田さんって何者なんだろう?」と思われた方へ向けてこの記事を書きました。
僕は現在、タイを拠点に置き、Vyondを使ったアニメーションを作ったり、本の出版サポートをしたり、武道に励んだり、ファウスト的衝動と向き合いながら生活をしています。
この記事では、そんな私の歩んできた道のりをお話しさせていただきます。
- YouTube「Vyond攻略チャンネル」登録者数3,400人超
- 企業向けアニメーション制作80社以上との取引
- Udemy講座1,400名以上の受講生
- 海外ワークショップ10回以上の開催
- Vyondアニメーション制作関連の書籍出版
高校生編
19歳で人力車の俥夫として働き出すまでは、ずっと千葉県松戸市で暮らした。
松戸といえば、今でこそ那須川天心、征矢貴、秋元強真など今の格闘技界を牽引する有名人が多く輩出されているが、私が住んでいた南西部の不良たちが集まる場所でした。
将来に希望は1mmも感じたことがなく、私は中学を卒業してそのまま土方として就職するつもりでした。
当時の自分が今フリーランスとしてアニメーションを作りながらSNSを駆使し、海外を飛び回る生活をしていることを知ったらきっと驚くはず。
人と違うことするって何かカッコいいじゃん?
学生時代は将来に希望なんてなかった。
僕は偏差値40にも満たない底辺高校出身で、19歳の初任給は手取りで5万円でした。それでも今は海外で生活しながら、学歴・国籍関係なくいろんな人と仕事ができています。
これは偏差値や文系理系という枠にとらわれず何事にも貪欲に学んで行動してきたからだと思う。
マジで人生どうにでもなる。 pic.twitter.com/PKmLe8Mg84— 飯田さん (@iida_shi) November 2, 2022
中学の成績は学年で206人中200位。
皆勤賞を取るくらい真面目なのに、給食の時間だけ来る不良よりも勉強ができなかった。
卒業したら高校へは行かずにそのまま土方になってなんとなく命を削って30歳くらいには不慮の事故で墓場に入るものだと思っていた。
そんな自分勝手な人生は許されず、高校を決める三者面談では担任がいることなんてお構いなしに、母と大喧嘩して強制終了した。
「高校くらいは出てよ…」
結局この言葉に心が折れ、家から自転車で通える市内で2番目に頭の悪い公立高校を目指すことに。
無論、勉強はせず、ずっとマンガを読んでいた。
そこで運命的な出会いをする。
近所のブックオフ閉店セールで格安で手に入れた『いちご100%』というマンガと出会った。ざっくりいえば、高校で映像研究部を立ち上げた主人公・真中を中心に女の子たちがわちゃわちゃするマンガだ。

晴れて、マンガを参考書に高校へ合格。
18歳までの3年間を鉄筋コンクリートの中でペンを持つ罪が課された。
傍観者であるな
高校入学と同時に映像を作る部活動を作るべく学校中を歩き回った。GWが始まる少し前に認められ晴れて映像制作ができる環境が手に入った。
無論、真中のような女の子とイチャイチャすることに憧れたからではない。
主人公の真中のようにやりたいことを叶えるために自ら道を開拓していく姿に惚れたから。おそらくこのマンガを見て僕のような感想をする人は日本にいないと思う。
そんな形で高校では部活を立ち上げ、NHKが主催する動画コンテストへ参加するくらい真面目に取り組んでいた。
女子部員の入部にちょっと期待はしていたが、立ち上げメンバーであった男5人とだけが3年間残ってくれた。

さらに高校へ入学して1ヶ月後に同級生から演劇部に誘われ、ちゃっかり入部した。
僕が所属していた演劇部は過去に国立劇場へ出場したことがある演劇強豪校。野球部でいう甲子園が、高校演劇において国立劇場のことを指す。このことを『檜の舞台に立つ』とも言われている。
演劇部の顧問の先生は、日本の高校演劇のレジェンドと呼ばれていた方で、蜷川幸雄ばりの怒声が響く稽古場だった。
自分で運営している部活では誰かに怒られることがなかったので、この環境では容赦なく怒ってくれた。
この落差が居心地よかった。

映像制作と芝居に明け暮れていたら気づいたら17歳。
あっという間に進路を決める時期になっていた。
土方に憧れていた中学生の頃とは打って変わって、すっかりエンターテインメントの世界に惚れたのだ。
真っ暗だった未来にスポットライトが当たる
高校卒業からは、なんとなく役者として生きていきたいと思った。しかし、アルバイトと両立して役者をやるほど覚悟があるかと言われたらそうでもなかった。
大学へ進学して無難に公務員になるなんて道も考えたが、結局それは親に喜んでもらうためだけの言い訳に過ぎないと気づきすぐさま諦めた。
所詮、僕の学力で入れるのはFラン大学。
東大や京大、MARCHへ行く人がいる中、Fラン大学で同じ4年間を過ごしたところでキャリアにおいては差が広がるだけ。
目的がないから高校へ行きたくないと駄々をこねた人間なので、日本の大学へ進学するつもりはなかった。
ただ高校2年生で進路と向き合った時、一度だけ「教師になりたい」と先生や親に言ったことがある。
しかしそれを言葉にした瞬間の大人たちがホッとする顔を見て、萎えた。
ある日、学校帰りに何気なく寄ったブックオフに運命的な出会いをする。
いつものように108円の安本を眺めてたら、200ページにも満たさない小さな本と出会った。
その本には、アメリカの大学へ正規留学する若者たちのストーリーや、日本人が海外へ行くことへ対する著者の思いがまとめられていた。
結局、著者が経営しているインターナショナルスクールの宣伝本だったのですが、すっかり運営方針やストイックさに惚れた。
そしてアメリカへ行けば、本場のミュージカルを見ることができ、英語が喋れる状態になる。仮に役者の道が途絶えても、英語が使えれば食いっぱぐれないことはないだろう。
そんな甘い人生設計を掲げてアメリカの大学へ正規留学を目標にブックオフで出会った新宿のインターナショナルスクールへ進学した。
自分のやりたいことは、自分で切り開く。
用意されたレールに従わなくても良いということを10代前半で知れたことが今のキャリア形成に大きく影響されている。
インターナショナルスクール編
勉強したくないから高校へは行かないと突っ張っていた飯田少年も高校3年間で広い世界を見せてもらい、勉強に意欲的になった。不思議なものだ。
NIC International College in Japanへ入学した。
この学校はとにかくストイックで知られている。
徹夜しても終わらない程の膨大な数の宿題、先生は全員ネイティブ、授業は全て英語。
なお英語を学ぶ場所ではない。
アメリカの大学で生き残るためのカリキュラムになっており、英語で政治、経済、社会問題などを学んだり、議論したり、自分の考えをエッセイにしてまとめたりする学校。
そしてNICはアメリカの大学と提携を組んでおり、90%の生徒は卒業後に西海岸のコミュニティカレッジへ入学し、その後4年制の大学へ進学する。
先にネタバレすると、私は残り10%になった。

学びは贅沢
学校が掲げているテーマは『ハードbut楽しい』
文字通りここでの1年間は過去振り返ってもハードだった。
授業は全て英語。先生に日本人はおらず、オーストラリア人、アメリカ人、イギリス人と人種は様々だった。
もちろん、言葉は何1つわからなかった。
課せられる課題に半日は費やしていた。例外なく同級生たちも。
私の場合は、さらに深夜1時から新聞配達していたため、始発で学校へ行き、23時に家に帰るという生活を1年間していた。

睡眠中以外はずっと勉強と新聞を配っていた。
英語漬けの生活から3ヶ月経った夏頃。
「あれ、英語がわかる…」
先生が話す英語を理解できるようになった。
今まで味わったことがない感覚。
「勉強って楽しい」と18歳にして感じることができた。
そして私が英語を理解できるようになった頃には、同級生が1人2人と来なくなった。
それくらいハードなのだ。

英語が理解できるようになった2学期目、卒業後の進路を決める時期がやってきた。
なんとなく父親に「海外の大学へ行きたいんだけど、どうしたらいい?」と聞いた。
すると険しい顔して「無理!」と一蹴された。
聞き返すと大きな声で「お前を大学へ連れて行くことはできない!!」とハッキリ言われた。
そんな大きな言葉を使わなくてもと思ったけど、それくらいハッキリ言ってくれないと諦めきれなかったと今なら冷静に受け止められる。
なんにせよ当時は卒業したらアメリカへ行くことしか考えていなかったので、いきなり目の前の道が閉ざされて絶望した。
今までの人生を振り返っても、18歳で海外留学を断念したときほど嗚咽して泣いたことはない。しっかりとした記憶はないけど、その日は朝から泣いて気絶するように寝て晩に起き上がった覚えがある。
泣きやみ冷静になった時、自分で何千万円もお金を借りて大学へ行き、普通に就職したら返せない額を借りる覚悟もなかったので、海外留学の道を諦めた。
そんなわけでインターナショナルスクールの同級生が渡航先のことを調べたりしている間、僕は求人を見ていた。
2学期が終わる頃には授業中の英語はある程度聞き取れるようになっていた。
「もっと勉強したい」と思いつつもできない自分がいた。
「学ぶことは贅沢だ」
林修がおっしゃっていたこの言葉が胸に刺さる。
ものごとを知ることで選択肢が広がり、人生が豊かになる。
僕が半年間英語と向き合っている間、高校で毎日遊んでいた友人が車の免許を取り、ドライブへ誘ってくれた。
集合したのは夜9時。彼とはくだらないジョークを言い合う仲。いつものノリで「箱根、行かね?」と提案をしたら、なんと彼は乗ってくれた。
深夜営業している日帰り風呂へ行き、江ノ島から朝日を浴びた。
当時は「楽しかった」としか思っていなかったけど、振り返ると潜在的に留学へ行けない自分ではなく、未来にフォーカスを当てるよう背中を押された出来事だった気がする。
オールで運転してくれた友人には感謝だ。
ちなみにこの1ヶ月後に、友人から誘われたLanguage Exchangeが教会主催で、これをきっかけに私はクリスチャンになった。この話は長くなるので割愛します。(棄教済み)

スキルは生き様
僕は人力車の仕事に憧れがあって始めたわけではない。
人力車の仕事へ就いた理由は、英語力の維持がきっかけ。
19歳でアメリカの大学へ進学することを諦めただけで、将来はアメリカの大学へ行くつもりだった。
つまりそのことを視野に入れて英語力は保っていたかった。
アメリカ留学を諦めた僕は就活を始めた。
その時にたまたま求人で出会ったのが人力車。
「人力車の仕事って楽しそう。」
「あれ、今って観光客多いから英語もたくさん使うのでは?」
「そういえば人力車のお兄さんってイケメンだよな。あの仕事に就けば俺もそうなれるのかな。」
今思えば先見の明があったよな。
求人サイトから応募し、早速浅草にある人力車の会社への面接が決まった。
僕が面接へ行ったのは京都に本店を構えるえびす屋。
しかしそんなことを梅雨知らず、浅草で仕事をするつもりでいた僕に、面接官からこんな提案をもらった。
京都の嵐山に行った方が、英語もたくさん使えるで。
向こうなら社員寮もあるから生活始めやすいし。
鶴の一声だった。
二つ返事で答えた。
たった30分足らずで京都への引越しが決まった。
親には事後報告。
「まあ、あなたのことだからね。」とすんなり受け入れてもらった。
最初は身につけたスキルを活かす仕事を探していただけ。
そしたらまさか人力車を引っ張ることになるとは。
もし英語が喋れていなかったら、そもそも人力車の仕事をしようと思っていなかった。
スキルは人の視野を広げ、可能性を見出すのだ。
下の写真はインターナショナルスクールのベランダ。
一番右にいる私が指を刺しているのは、コンフォリア新宿イーストサイドタワー。
いつか絶対にここに住んでやると意気込んでいた。

京都編
貯金5万円で京都へ引っ越した。
新聞配達をしないといけないくらいの貧乏学生だったから。
修学旅行で来た京都とは訳が違う。
仕事で京都へやってきた。
同級生たちと別れを惜しむ暇もなく、地元から住所を抜き京都へ。
そうだ、京都へ行こう
京都での人力車生活が始まった。
人力車のお兄さんの仕事の流れはざっくりと以下の通り。
- 人力車の準備
- お客様へ営業
- 乗車
- ガイド&写真撮影
- アフターサポート
- 人力車の清掃
これらを営業の数字を意識しながら行わないといけない。
会話下手、自分勝手、目を見て話せない、滑舌悪い、勉強と向き合ったのは1年だけ。
そんな男が関東から来たものだから、当初は怒られ続けた。
意識が朦朧とするまで怒られたこともある。
それでもこの仕事が好きだった僕は、やめて実家へ帰るなんて選択肢はなかった。
雨に打たれながらお客様へ営業し、
夏は汗で梶棒を湿らせながら人力車を引っ張り、
景色が赤くなると同時に人数が増え、
冬は靴下を2枚履き走り回った。
この時の頑張りは後にフリーランスになってからも大きく影響した。

環境を変えたら、人生が変わった
僕が所属していた『えびす屋』は全国に10店舗展開していた。(定期的に新しい店舗ができたり潰れたり…)
桜と紅葉の時期は京都へ、夏は小樽、冬は湯布院、紫陽花の時期は鎌倉みたく、シーズンによって転勤をする人がいる。
季節ごとにいろんな顔を持つ嵐山には毎年秋と春に全国から人力車のお兄さんが集結する。
転勤でやってくる人の中には、一定の店舗に所属せず、シーズンによって勤務店舗を変える俥夫も存在していた。
そんな転勤をしている、いわゆるノマド的な生活に憧れた。
京都へ来て1年が経とうとしていたとき、北海道の小樽へ転勤が決まった。
自分から立候補した。嵐山の方が市場がいいからと最初は止められたが、経験したいとわがままを伝えたら、ゴーサインを出してくださった。
千葉から京都へ飛び出し1年、人生初めての北海道を仕事で行くことになる。
この選択が後に大きな影響を与える。
そして、しばらく離れる京都で後悔しないようにマッチングアプリをしたらネットワークビジネスへ入会され、見事Amwayの会員になった。(半年で退会)

(左から)
強くなるために出張へ行ったら資本主義に出会った
初年度に夏の京都で働いた。
いくら好きな仕事とはいえ、冬でもヒートテックを来たら汗だくになるくらいの暑がりにとって、夏の京都は地獄のようだった。
夏の京都で引っ張りたくない一心で、僕は2年目の夏は北海道の小樽へ転勤希望を出した。
そんな小樽での生活は、気温的には最高だったが、仕事人としてはとても厳しい環境だった。

こんな笑顔でいられるのは研修中だけ。
研修が無事に終了し、現場へ立つようになってからは毎朝8時から出勤。そして夜21時まで人力車を引っ張る。
キツそうでしょ?
でももっとキツいのは17時に帰ること。
日中に数字が出せなかった人は、17時に強制的に帰宅させられるのだ。
仕事をしにわざわざ小樽まで転勤で来ているのに、結果が出せないと早く帰宅させられる屈辱。
なぜ数字が出せないのか怒られる。俺だって知りたいなんて言えず、もっと頑張ります!としか言葉が出ない職場。
僕も早帰りする人だった。
なんとか数字を出すために、ガイドの知識を頭に入れるようにした。
帰宅したら本やYouTubeから情報を取り入れ、翌日のガイドへ組み込む。
そんな生活をしていたとき、ある1冊の本と出会い、今の仕事のあり方を見つめ直すようになった。
その本が小林多喜二の『蟹工船』
【蟹工船とは?】
戦時中における資本社会の闇を題材に、労働者が資本者に淘汰される日々からストライキにより脱却する話。
小林多喜二が描き出した労働者の厳しい生活条件や彼らの反乱は、小樽を含む当時の北海道の海産物加工業で実際に存在した問題を反映しています。
そのため、小樽と『蟹工船』は、時代背景や社会状況という面で関連性があるため、ガイドに紐づけられると希望を持って、読み出したのです。
俺、いつまで人力車の仕事するの?
これが蟹工船を読み終えた感想。
歳が1つしか違う上司が全国の売り上げトップを張っている中、俺は早帰り。
いくら勤務年数の違いがあるとはいえ、悔しかった。
でもこの差を埋めるほど熱はない。小樽へ行く前にとある上司からは「この仕事向いてないよ」と言われる始末。
そしてこの向いていない仕事に対して向き合うより他の業務へ力を注いだ方がいいのでは?
どれだけ頑張っても社長や専務より稼ぐなんて無理じゃん。
仕事を本気で向き合いに転勤したら、資本主義と出会ってしまった。
とはいえ、人力車という仕事は大好きだった。
数分前まで全く乗る気がなかったお客様を説得し、誠心誠意のサービスを提供して、目の前でお礼を言ってもらえる。こんな仕事、ほかにない。
そしてせっかくこの土地へ転勤で行かせてもらったから、数字で結果を残したい!!
そう思った矢先、北海道でマグニチュードは6.7の地震が発生。
街の電気は止まり、水も出なくなった。
昨日までいた観光客は嘘のように消えた。
小樽転勤は、予定よりも1ヶ月早めに終了し、京都へ帰ることに。
人力車との仕事にやっと向き合えると思った矢先の出来事だったので不完全燃焼。
なお小樽にいるときに、マッチングアプリで出会った女性とお付き合いすることになった。
上司から「女連れて帰ってきた!」と散々いじられた。その後、3年間お付き合いした。彼女とは歳が10個も離れていることから、考え方から所作、生き方などたくさんのことを学ばせてもらった。

会社員編
2019年5月に上司からの反対を押し切って人力車を引退した。
「せっかく小樽まで行ったのに勿体無い」
「あと1年頑張ってみないか?」
「ここで結果出せない奴は他行っても結果出せないぞ」
そんな言葉たちを投げかけられたこともあったが、自分の道を進んだ。
2018年9月に時系列を戻す。一回り成長した気持ちで小樽から京都へ戻った。
「諦めること」は「明らかにすること」
約4ヶ月ぶりと久しぶりに嵐山で人力車を引っ張った。
すると初日に上司から安全不備で怒られた。
「飯田、何も変わってないじゃん!」
──ポキッ!
早帰りしていたとはいえ、この仕事と向き合いどうすれば数字を伸ばせるか考えていた。自分でできる限りの中で、仕事に手を抜いたつもりはない。
そんな経験をして自信をつけて帰ってきた矢先に投げかけられたこの言葉は、僕のプライドを壊すには十分すぎた。
「ああ、やっぱりこの仕事向いてないわ」
それからの記憶はあまり覚えていない。
ほのかに『フリーランス』という働き方に憧れていたので、高年収フリーランスになれるエンジニアを目指すことにした。
2019年2月、月25日ほど出勤していた仕事を10日出勤に抑えて、1ヶ月間大阪のプログラミングスクールへ通いITの基礎知識からプログラミングの基礎中の基礎を身につけた。

(当時はYouTubeは見る専で発信はしていなかった)
プログラミングスクールを卒業した経験が評価され、高卒の元人力車のお兄さんが京都の烏丸にあるIT企業へ転職成功。
2019年5月、2年間の人力車人生が終わった。(一旦ね)
振り返ると、人生経験が浅い自分はあの仕事と向き合うことをあきらめて良かったと思う。
なぜなら、諦めたことで次の道が明確に見出され、人力車をやめた半年後には目標としていたフリーランスになれたから。
諦めることは恥ずかしいことではない。
負けるとわかっていながら意地でも勝負する時間は生命活動への冒涜だよ。
ようこそ、正社員へ
2019年5月、IT企業への就職を果たしました。
しかし、エンジニアとしての仕事に楽しさを見出すことができません。
誰でもできる業務の繰り返しに、将来への不安が募っていった。
当時の写真はほぼ皆無。
会社主催のBBQで、プロジェクトマネージャーと死ぬほど飲んだのは楽しかったなぁ。
そんな中、就職からわずか3ヶ月後の夏、運命的な出会いが訪れます。
フリーランスになりたい人が集まるオンラインサロンのオフ会で、一人のYouTuberと出会ったのです。
「僕ならもっといいサムネイルが作れる」。
その思いつきの一言から、なんと勝手にサムネイルを作ったら500円をいただいた。
初めて自分の銀行口座に給料以外のお金が入ったことにドーパミンがドバドバ出たのを今でも覚えている。

コロナ禍が導いた転機
2020年1月、たった20万円の貯金を持って会社を退職することを決意しました。
動画編集一本で生きていく決断は、多くの人から反対されました。
しかし、2月には京都の映像制作会社で結婚式の撮影を担当することが決まり、明るい未来が見えていたのです。
その矢先、世界はコロナ禍に突入。
予定していた撮影の仕事は全てキャンセルとなりました。
この危機的状況の中、私は2つの重要な決断をします。
1つは国の無利子融資で50万円を借り入れること。
もう1つは、年間12万円のアニメーション制作ツールへの投資でした。
同時に、学んだスキルをYouTubeで発信し始めたことが、思わぬ転機となります。
10分の動画制作で15万円の報酬をいただいた時、この決断は間違っていなかったと確信した。
世界を旅するクリエイターとしての挑戦
コロナ禍での決断は、私の人生に新たな可能性をもたらしました。
場所に縛られない働き方を手に入れた今、世界への扉が開かれたのです。
人力車、復活
時が経ち、2021年5月。
『好きな場所で好きな仕事をする』というライフスタイルを手に入れた僕はまた函館で人力車を引っ張ることにした。
2021年2月、4年間の京都での生活に終止符を打ち、自己拡大を目的に、本格的に海外移住の準備に取り掛かった。
とにかく日本以外の国に長く身を置きたかった。
そんな時にジョージアという国と出会う。
しかし、その時はワクチンを打たないと入国ができなかった。
日本で若者がワクチンを打てるのは早くても夏頃だった。
つまるところ、ワクチンを打つまでジョージアへ行けないので、時間を余していたのだ。
あれ人力車、やっちゃう??
何回かここでもお伝えしているが、僕は人力車という仕事自体はものすごく好き。
そして函館には僕が所属していた会社のフランチャイズがあり、副店長とは嵐山で一緒に走ったこともあり、大変変わり者で僕は惹かれていた。
そんなこんなで一度走り出すと止まれない僕は、函館店へ事情を話すとすんなりと受け入れてくださった。
2021年5月から8月まで函館で人力車を引っ張ることが決まった。

2年ぶりの人力車、そして函館という新天地。
とにかく幸せに包まれた時間だった。
いろいろと割愛するが、函館という街に惚れ、そして人力車の仕事がさらに好きになった。
よく駆け出しのフリーランスから「やりたい仕事がしたいです!どうすればいいですか?」といった質問をいただく。
僕は毎回こう伝えている。
まずは好きな仕事よりお金が稼げる仕事をする。
なぜならお金があれば仕事に限らず好きなことができるから。
好きなことをしたいなら、好きでなくても稼げる仕事をしなさい。
例えば、月の生活費が15万円だとすれば、
1ヶ月で90万円稼げば半年は好きなことができる。
僕はこの方法で、自分のフリーランスとしての仕事をしつつ、函館で人力車のお兄さんとして仕事をしていた。
世界は学びで満ちている
2021年10月、ついに初めての海外となるジョージアへ飛び立ちました。
そこで出会った日本人たちは、私の想像を遥かに超える生き方をしていたのです。
移住からわずか1ヶ月後、ジョージア首都トビリシにある日本人経営バーでスペインへワーホリ中の男の子と出会い、スペインへ行くことに。
人生2カ国目はスペイン。これをきっかけに世界を旅したい意欲が湧いた。
ヨルダンの古代都市ペトラ遺跡、悲しみの遺産アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所など、学校の教科書に載る場所をこの目で見て、肌で感じ、匂いを嗅ぎ、歴史を学んできた。
ソウルでの韓国語留学、仲間を集めてのアメリカ横断。
私にとって旅の醍醐味は、観光地や絶景ではなく、人との出会いにあることに気づいたのです。

クリエイターとしての新たな挑戦
世界を旅しながら、私のクリエイターとしての活動も進化を続けています。
チェンマイでのコーリビング生活は、新しい働き方の可能性を見せてくれました。
世界中の人々との交流は、私の創作活動に新たな視点をもたらしています。
宇宙兄弟のような心に響く作品との出会いや、狩猟に関する独自の視点など。
様々な経験が、私のクリエイターとしての幅を広げてくれているのです。
まとめ
振り返ってみると、全ては「挑戦」から始まっていました。
人力車夫として初めて京都の石畳を走った時も、たった20万円で独立を決意した時も、コロナ禍での投資も、そして海外移住も。
その時々で不安はありましたが、一歩を踏み出すことで必ず道は開けてきたのです。
私はXで日々の発見や気づきを発信しています。
もしあなたも「何か新しいことを始めたい」とお考えでしたら、ぜひ私のXをフォローしてください。
一緒に成長できる仲間としてお会いできることを楽しみにしております!
